2014年12月14日日曜日

滋賀県立長浜北高等学校 卒業年次一覧 旧制並びに新制

滋賀県立長浜北高等学校

2016年/平成28年3月卒業見込み 第64期
2015年/平成27年3月卒業  第63期
2014年/平成26年3月卒業  第62期
2013年/平成25年3月卒業  第61期
2012年/平成24年3月卒業  第60期
2011年/平成23年3月卒業  第59期   
2010年/平成22年3月卒業  第58期
2009年/平成21年3月卒業  第57期
2008年/平成20年3月卒業  第56期   
2007年/平成19年3月卒業  第55期
2006年/平成18年3月卒業  第54期
2005年/平成17年3月卒業  第53期
2004年/平成16年3月卒業  第52期
2003年/平成15年3月卒業  第51期
2002年/平成14年3月卒業  第50期
2001年/平成13年3月卒業  第49期
2000年/平成12年3月卒業  第48期
1999年/平成11年3月卒業  第47期
1998年/平成10年3月卒業  第46期   
1997年/平成09年3月卒業  第45期
1996年/平成08年3月卒業  第44期
1995年/平成07年3月卒業  第43期   
1994年/平成06年3月卒業  第42期
1993年/平成05年3月卒業  第41期
1992年/平成04年3月卒業  第40期
1991年/平成03年3月卒業  第39期
1990年/平成02年3月卒業  第38期
1989年/平成元年3月卒業  第37期   
1988年/昭和63年3月卒業  第36期
1987年/昭和62年3月卒業  第35期
1986年/昭和61年3月卒業  第34期
1985年/昭和60年3月卒業  第33期
1984年/昭和59年3月卒業  第32期
1983年/昭和58年3月卒業  第31期   
1982年/昭和57年3月卒業  第30期
1981年/昭和56年3月卒業  第29期
1980年/昭和55年3月卒業  第28期
1979年/昭和54年3月卒業  第27期
1978年/昭和53年3月卒業  第26期
1977年/昭和52年3月卒業  第25期
1976年/昭和51年3月卒業  第24期
1975年/昭和50年3月卒業  第23期
1974年/昭和49年3月卒業  第22期
1973年/昭和48年3月卒業  第21期
1972年/昭和47年3月卒業  第20期
1971年/昭和46年3月卒業  第19期
1970年/昭和45年3月卒業  第18期   
1969年/昭和44年3月卒業  第17期   
1968年/昭和43年3月卒業  第16期   
1967年/昭和42年3月卒業  第15期
1966年/昭和41年3月卒業  第14期
1965年/昭和40年3月卒業  第13期
1964年/昭和39年3月卒業  第12期   
1963年/昭和38年3月卒業  第11期   
1962年/昭和37年3月卒業  第10期
1961年/昭和36年3月卒業  第09期
1960年/昭和35年3月卒業  第08期
1959年/昭和34年3月卒業  第07期
1958年/昭和33年3月卒業  第06期
1957年/昭和32年3月卒業  第05期
1956年/昭和31年3月卒業  第04期
1955年/昭和30年3月卒業  第03期
1954年/昭和29年3月卒業  第02期
1953年/昭和28年3月卒業  第01期



滋賀県立長浜高等学校

1952年/昭和27年3月卒業  第03期
1951年/昭和26年3月卒業  第02期
1950年/昭和25年3月卒業  第01期



滋賀県立長浜北高等学校

1949年/昭和24年3月卒業  第01期



滋賀県立長浜高等女学校

1948年/昭和23年3月卒業  第26期   
1947年/昭和22年3月卒業  第25期   
1946年/昭和21年3月卒業  第24期
1945年/昭和20年3月卒業  第23期   
1944年/昭和19年3月卒業  第22期
1943年/昭和18年3月卒業  第21期
1942年/昭和17年3月卒業  第20期
1941年/昭和16年3月卒業  第19期   
1940年/昭和15年3月卒業  第18期   
1939年/昭和14年3月卒業  第17期
1938年/昭和13年3月卒業  第16期
1937年/昭和12年3月卒業  第15期   
1936年/昭和11年3月卒業  第14期
1935年/昭和10年3月卒業  第13期
1934年/昭和09年3月卒業  第12期
1933年/昭和08年3月卒業  第11期
1932年/昭和07年3月卒業  第10期   
1931年/昭和06年3月卒業  第09期   
1930年/昭和05年3月卒業  第08期
1929年/昭和04年3月卒業  第07期
1928年/昭和03年3月卒業  第06期
1927年/昭和02年3月卒業  第05期
1926年/大正15年3月卒業  第04期   
1925年/大正14年3月卒業  第03期
1924年/大正13年3月卒業  第02期
1923年/大正12年3月卒業  第01期   



長浜町立長浜高等女学校

1922年/大正11年3月卒業  第10期
1921年/大正10年3月卒業  第09期



長浜町立長浜実科高等女学校

1920年/大正09年3月卒業  第08期
1919年/大正08年3月卒業  第07期
1918年/大正07年3月卒業  第06期   
1917年/大正06年3月卒業  第05期
1916年/大正05年3月卒業  第04期
1915年/大正04年3月卒業  第03期
1914年/大正03年3月卒業  第02期   
1913年/大正02年3月卒業  第01期
   
                            

以上



2014年10月12日日曜日

滋賀県立長浜北高等学校 校歌



一、


伊吹嶺に かかる朝雲


ばら色に 匂うを見つつ


大いなる 世代をになう


若人の希望 明かるし


新しき 日本文化の


揺籃ぞ この学び舎


ああ われらの


長浜 長浜北高校




二、


風光る 琵琶のみずうみ


紺碧に 澄めるを見つつ


ひろき愛 ふかき叡智を


はぐぐまん 理想はるけし


ゆるぎなき 世界平和の


礎ぞ この学び舎


ああ われらの


長浜 長浜北高校











2014年10月11日土曜日

滋賀県立長浜高等女学校校歌

園田校長 作歌
小林教諭 作曲


一、

教の勅 昭かに

日に開け行く 學の道

仰げば高し 伊吹山

道の奥處を尋ねつつ

いざや諸共に 分け入らばや


二、

常盤の色に 千代かけて

立ち榮え行く 八幡の森

若き木立は 乙女われ

身を露霜にきたへつつ

いざや諸共に おひたたばや


三、

豊榮登る 日の國を

いや固め成す婦女の徳

鏡は澄める 鳰の海

心の相 うつしつつ

いざや諸共に みがかばや





( 1929年(昭和4年)5月29日制定 滋賀県立長浜高等女学校校歌 )




2014年10月10日金曜日

長浜北高校 選抜野球応援歌 (第1応援歌) 『燃える闘志は』


 一、

飛ばせ ボールを 大空に

打てよ 走れよ はつらつと

燃える闘志は 我らが伝統

心ひとつに たくましく

勝どき上げよ 明日のため

長浜北高校

長浜北高校

フレフレフレ フレフレフレ

長浜北高 長浜北高

フレフレフレ


二、

きたえぬかれた この技で

投げよ 守れよ はつらつと

燃える闘志は われらが誇り

大逆転の夢のせて

今ぞ 男の雄たけびを

長浜北高校 長浜北高校

フレフレフレ フレフレフレ

長浜北高 長浜北高

フレフレフレ



※応援歌『燃える闘志は』
1983年(昭和58年)3月の全国選抜高校野球大会、北高野球部は甲子園出場の夢を実現しました。
この応援歌は、そのときに作詞作曲されたもので、北高オリジナルです!
作詞は横浜仁士先生です。




2014年10月9日木曜日

長浜北高応援歌 (第2応援歌)


『鋼鉄の桐のもとに』 



曲: Adolf Hoffmann (Das Panzerlied)
詩: A Kitakou Graduate


1.

われらが母校、長浜北

幾歳月、経たその歴史

みなぎる誇りに志いざ高く

進め北高

嵐超え



2.

行く手にあまた苦難あれど

われらは雄々しく進みゆく

あふれる勇気に心は希望に満ち

進め北高

恐れるな



3.

校庭の並木は変わらず

われらを迎えまた送り出す

鋼鉄の桐はわれらの絆結ぶ

集え北高

結束を



4.

あれ見よ、エンジの旗なびく

長浜北高ここにあり

伊吹の峰に湖の恵み受け

われら北高

名を上げよ




※北高の新しい応援歌を作ってみました。

といって作曲などできるはずもないので、昔のドイツのマーチ Das Panzerlied (パンツァー・リート 装甲兵の歌)に歌詞をつけただけですが...

アナ雪ばりにうまくハマった!と思います(そう思ってるのは、自分だけ^^)

曲は
https://www.youtube.com/watch?v=LmC9AVCbG-A をクリックしてください。







2014年10月8日水曜日

長浜北高応援歌 (第3応援歌)

【 母校の呼び声 Kitakou Calling  】

曲:Herms Niel 'Erika Marsch' 
https://m.youtube.com/watch?v=BbnfJXQ6lOo
詞:北高OB


1.
はるか森を抜け見える
あれは
母校

学びの舎は呼び招く
早く
来いと

伊吹嶺を仰ぎ
桐の若樹育つ

北高、長浜北高
それは
母校

※バージョンによっては、第4節(北高、長浜北高...)を繰り返し


2.
明治の世に始まりて
今日に
至る

輝やく我れらが学舎
それは
母校

われら集い散じ
桐の青葉の下

北高、長浜北高
それは
母校


3.
熱き思い胸に秘め
われら
進む

固く信じ決意込め
われら
歩む

天の星の如く
たゆまず努力して

北高、長浜北高
それは
母校





※第3応援歌です。
曲は、エリカマーチ。
第1番の歌詞には昭和2年卒業生の手記を、第3番の歌詞には校訓『自疆自息』の精神を織り込んでみました。



2014年10月7日火曜日

長浜北高応援歌 (第4応援歌)

「 北高生の本領 」 The spirit of Nagahama Kita-Kou.曲:https://www.youtube.com/watch?v=C_a0b7QIKLI&list=LL4tm6c6gV2Z9iK_cYWTkuXQ&index=8
詞:北高OB


1.
えんじの校旗に輝く桐章(きりしょう)
フレー、フレー、フレー、フレー
見せよ底力
北高、北高、長浜北高
目にもの見せよ、北高生
勝どき上げよ、明日のため

2.
暁(あかつき)光(ひかり)に輝く校章
いざ、いざ、いざ、いざ
われらここにあり
北高、北高、長浜北高
質実剛健、自彊不息(じきょうやまず)
受け継げ、学の教えを

3.
危難の秋(とき)にも、われらは負けず
ゆけ、ゆけ、ゆけ、ゆけ
われら進み行く
北高、北高、長浜北高
世紀に及ぶその歴史
輝く未来へ続く

4.
厳しき湖北の冬の朝夕に
吹け、吹け、吹け、吹け
湖北しぐれ
北高、北高、長浜北高
艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて
われらは雄々しく歩む

5.
父なる伊吹、母なる近江
見よ、見よ、見よ、見よ
うるわし我が郷土
北高、北高、長浜北高
親の育て、師の教え
二重(ふたえ)の恩を忘れまじ

6.
強き絆は世代を超えて
聴け、聴け、聴け、聴け
友よ、同胞(はらから)よ
北高、北高、長浜北高
聴こえる母校の呼び声
われら参じん 学び舎に



※応援歌をまた作りました^^
例によって替え歌ですが...
我ながら、今回はなかなかの傑作だとおもうのですがどうでしょう?しかも、なんと、6番まであります(笑
なお、今回(第4応援歌)は第1番の歌詞に、1983年に横濱先生が作詞された選抜応援歌(第1応援歌)の歌詞を織り込んでいます。亡き恩師への私からのオマージュ(捧げ物)です。

そして、わたしは、いつか、近い将来、われらが北高野球部が三度目の甲子園の土を踏んでくれるであろうこと、その時は、私の応援歌も歌ってくれるであろうことを固く信じてやみません!




2014年10月6日月曜日

長浜北高応援歌 (第5応援歌)

 「北高の勝利」 Victorious Nagahama Kita-Kou.

1.

長浜 北高

湖北の勇者よ

雄々しき精鋭

だれもが ヒーロー

滴る 汗涙(かんるい)も

ただ今日の いざために

長浜、北高、長浜北高

ゴールを目指し

走りつ跳びて

母校の名をば 高からしめよ

秀れし技量

明るき笑顔

苦戦の中にも

へこたれず

狙えシュートを

果敢に攻めろ

ただ今日の日のいざために

走れ 北高

攻めろ 北高

勝利の女神が微笑む

オレ!



2.

長浜 北高

われらの 学び舎

夜明けの 曙光(しょこう)に

桐章は 輝く

暗き夜(よ) 退き

われらの 朝が来る

北高、北高、長浜北高

至誠一貫(しせいいっかん)

自彊不息(じきょうやまず)

百年校史は今受け継がれ

雨が降れど

風が吹けど

希望の灯(ともしび)

消えはせぬ

新たな朝(あした)

新たな希望

雄々しく未来に飛翔せよ

愛せ 友を

共に 競え

母校の誇りはここにあり

オレ!





※第5応援歌を作りました。

北高ホッケー部&サッカー部の応援歌です。


(なお、野球部バージョンもあります。)

 曲は、こちら


上のムービーではスタジアムの合唱がものすごく、やや音が聴き取りにくいので、ちゃんと音を聴きたい方はこちらを聴いてみてください

観客が総立ちで「北高!」の校名を連呼する、ホッケーのサッカーの試合会場で、そういう日が必ず来ると信じてこの第5応援歌を捧げます。

ガンバレ!
北高ホッケー部、北高サッカー部

ガンバレ
長浜北高!

ガンバレ
すべての北高生!




2014年10月5日日曜日

愛校歌


長浜北高讃歌 『 永遠なる北高 』

曲: Franz Joseph Haydn 'Gott erhalte Franz den Kaiser'
詞: 北高卒業生

1.

長浜北高

われらの母校

湖北の地に根付き

世紀を超えぬ

その誉れ(ほまれ)、今日に至り

あらたに輝やく

長浜北高

永久(とわ)に永久に栄(さかえ)よ

長浜北高

永遠なれ、わが母校



2.

伊吹嶺(みね)を望み

近江の恵み受く

偉人の先蹤(せんしょう)刻む

郷土の歴史

深き研鑽、実践ありて

未来に羽ばたく

長浜北高

それはわれらの学び舎(まなびや)

長浜北高

それはわれらの宿り木







※長浜北高讃歌(愛校歌)を作りました。

といって、この曲に歌詞だけ付けたのですが^^
        ↓

https://www.youtube.com/watch?v=rmheo9bePH8



実はこの曲はドイツの国歌の替え歌なのです。

しかし、ドイツの国歌そのものが替え歌で、ハイドンの『皇帝讃歌』という曲をもとにしています。

大作曲家のハイドンのメロディはシンプルながら美しくおぼえやすいとあって、歌詞を変えて昔のオーストリア帝国の国歌にもなっていました。

また、やっぱり歌詞だけ変えて賛美歌にもなっています。

というわけで、替え歌三昧のこの曲にのせて、母校北高を讃える歌を作った次第です。

そういえば、長浜市はドイツの古都アウグスブルクと姉妹都市でもあるし、質実剛健まじめでひたむきなドイツ人気質というのは、北高の校風に合っているとも思います。

だから、ドイツの国歌と同じメロディを使っても、まぁいいですよね(著作権もとっくに切れているし)。

ところで、オリジナルのハイドンの「皇帝讃歌」ですが、正式のドイツ国歌になる前に、ドイツの愛国者達が愛国的な歌詞を付けて内輪で歌っていました。

ドイツと言う国は長い間、同じ民族なのに国がなかなかまとまらず小さな国々に分裂していました。そのために、外国から侮られたり、侵略を受けたりして苦しんだ歴史を持っています。

ちょうど日本の明治維新の頃に、やっとドイツの統一に成功しました。

それまで、ドイツの愛国者達はドイツ人の団結と国の統一を願いつつ、このメロディにのせた歌を歌っていたのです。

さて、こうしている今も、われらが母校、長浜北高は厳しい状況に置かれています。

近いうちに校舎はなくなり、懐かしい校地からも立ち去ることになり、結局、校名も残らないかもしれません。

そんな時期だからこそ、かつて団結と統一を切望する人々が歌ったメロディにのせて、母校北高を讃える歌を書くことに、少しは意味があるかもしれない…そんな風に思った次第です。

やはりドイツ統一の頃に活躍したドイツの作曲家ワーグナーの歌劇にこんな歌詞があります。

「たとえ、神聖ローマ帝国が煙のように消えてしまっても、ドイツの伝統が消える事はない」

(ワーグナー作曲『ニュルンベルクのマイスタージンガー』終曲部分 ※神聖ローマ帝国はドイツの古名)


同じように私も申し上げたい。

たとえ、母校北高が煙のように消えてしまっても、私達卒業生がいる限り、母校の歴史は消える事はない!

歴史や伝統と言うものは、それを受け継ぐ覚悟をもった人が一人でもいる限りは滅びることはないのです。

わたしたちの母校、長浜北高の歴史が滅びることなく、さらに、未来に受け継がれるよう、私たちは団結し、出来る限りの事をしていこうではありませんか!







2014年9月14日日曜日

北高歴史部


41年前に北高歴史部が長浜市からの委託を受けて編纂した『ふるさと長浜』より

長浜市教育委員会の野一色教育長の『発刊のことば』です。

なかなか味わい深い文章だと思います。

ここに転載いたします。





ふるさと長浜 』 

長浜市教育委員会・滋賀県立長浜北高等学校歴史部 編集 1973

 

発刊のことば

 

「知ること深ければ、愛することもまた深い」といわれます。私たちのふるさと長浜を愛し、長浜の発展を願う者は、まず長浜をよく知ることであると言えましょう。

現在の長浜は、過去からの連続であり、また将来への出発点でもあるわけです。現在の長浜をほんとうに知るためには、現在までの長浜をつぶさに訪ねてみることからはじめなければならないと思います。そしてそのことは、やがて長浜を愛し、長浜の発展に寄与することに、つながるものだと思います。

本年は市制施行三十年の、記念すべき年であります。ここで、今一度改めて長浜を知り、長浜を愛する心のよりどころにもなればと念じて、このたび長浜市では、市制施行三十年の記念出版が企画されました。教育委員会はこの企画の委託を受けたので、県立長浜北高等学校の格別のご協力を得て、ここにささやかではありますが、本書を出版する運びとなりました。ねがわくば本書が、長浜を知り、長浜を愛し、長浜の発展のための、何等かのご参考になれば幸です。「水と緑と太陽のまち長浜」「風格のあるふるさとのまち長浜」のますますの発展を祈念いたします。

最後になりましたが、本書の出版にあたり、県立長浜北高等学校の格別のご協力に対し深甚な謝意を表します。

 

昭和四十八年十月

 

長浜市教育委員会

教育長 野一色 佐八

 

 


同じく北高歴史部編集の『ふるさと長浜』より

当時の歴史部顧問、江竜喜之先生のあとがきです。

これを読んでいると昭和27年の創設以来、北高歴史部が郷土の歴史や地誌について地道な調査活動をつづけ、毎年機関誌『歴史』を発刊していたことがわかります。

素晴らしい実績だと思います。

北高歴史部を復活させたい、切にそう願います。


 

 

あとがき

 

本書の内容の大部分は、長浜北高等学校の歴史部が過去十年間にわたって、毎年テーマをきめて、郷土長浜の歴史について、調査・研究をしてきた結果をまとめたものです。このように、私どものこれまでの活動成果を市制三十周年を機会にまとまった一冊の本にする機会を与えてくださった長浜市・長浜市教育委員会に対し、部員ともども深く感謝の意を表するものです。

長浜北高等学校の歴史部は、前顧問の井上孝士先生のご尽力により、昭和二十七年の頃、それまでにあった社会科研究部などをもとにして、創設され、翌年には機関紙「歴史」第一号が発刊されました。以後、歴代の部員や顧問の努力により、毎年一冊ずつ規則正しく刊行が続けられてきました。この間、昭和三十七年の十周年記念号に「秀吉と長浜」という記事が掲載されたのを契機に、翌年より、郷土長浜の歴史に関するテーマを設定して活動をすすめ、その結果をその年々の「歴史」に特集記事として掲載してきました。この特集記事を集め、加筆、訂正を加え、前後脈絡をとって、一冊の本にまとめ上げたのが本書です。

以上のように本書は長浜市の歴史を系統的、網羅的に著述したものではなく、断片的ないくつかのテーマを設け、それぞれの方面から長浜の歴史を少々追求してみた程度のものです。このため、きわめて資料性の強いものがあるかと思えば、単なる読み物風なものまでまじっており、各章ごとに少しずつその性格がちがいます。文体も一応、「である」調で統一されていますが、第九章だけは、その内容にあわせて「です」「ます」調にしてあります。

なにしろ過去十年間にわたって少しずつ調べ上げてきたもので、今回相当に手直しをしてみましたが、まだまだ内容的に古くなった面もあるかと思います。また編集者の不注意、不行届きのために多くの過誤を犯しているかと思います。この点、強くその責任を感じている状況です。このように、本書は長浜の歴史としてはきわめて、不完全なものですが、少しでもご参考になるものがあればと願っています。

いま、振り返ってみますと、歴史部の毎年の調査研究活動、ならびに本書の編集にあたって、お世話になった方はきわめて多数にのぼります。内容が地域の歴史だけに、資料の収集はすべて地元の方々のご厚意によっているといっても過言ではありません。とくに中村林一氏にはテーマの設定や資料の取り扱いに至るまで多くのご指導をいただいてきました。このように本書はまさに地元の方々のご協力のたまものです。また資料の提供や全体の企画、それに編集の一部をご担当いただいた長浜市教育委員会の方々のご尽力ご協力は申すまでもありません。ここに心より厚くお礼申し上げる次第です。

このほか、企画・編集・校正の面でお力添えをいただいた方々そして、小野吟左衛門校長をはじめとする長浜北高等学校の職員の方々、第七章の碑文の点検にご協力いただいた小林清八郎氏、それに西川丈夫君をはじめとする歴史部の先輩の方々等々、いずれもお忙しい中、貴重な時間をさいてご助力、ご支援いただきました。ここに部員ともども深く感謝をいたす次第です。

最後に印刷にあたって、私どものたび重なるめんどうなお願いを心よくお聞き届けいただいた明文舎印刷商事株式会社の中村尚専務をはじめ、関係者の方々に厚くお礼の言葉を申し述べたいと存じます。

 

長浜北高等学校歴史部顧問

江竜 喜之     

2014年7月14日月曜日

Heros 英雄たちの凱旋

『 Heros 英雄たちの凱旋 』


小走りに駆ける若人たちの一団を見る

炎熱に焼かれ、汗と泥にまみれた彼ら

腕で顔を覆う者、帽子を目深にかぶりなおす者...

勝負は時の運だ

勝利の女神は気まぐれで

わざと力のある者をおとしめることもある

だが、グラウンドの彼らの姿は、試合の後も、脳裏に残る

ある者は、いやと言うほど素振りを重ねたフォームで敵に挑み

またある者は、死に物狂いで白球を追い、身を挺してチームを守った

意地と気迫をみなぎらせ、ひとりマウンドで孤独な勝負を続けた

ベンチで、応援席で声を嗄らして声援をおくった者もいる

その日、炎天の下、だれもが懸命に戦った

今日の試合が最後になる者も、次のゲームを待つ者も

だれもが等しく、始まったばかりの人生を進みゆく

今日の敗北を糧として

明日の勝利を目指しつつ

ただひたすらにまっすぐに進む彼ら

走り続ける者はいずれゴールに達する

唇を固く結び、悔しさをかみしめる彼ら

強い思いを持つ者はいつか事を成し遂げる

泥まみれで黙々と行く彼らに

今こそ、心からの声援を贈る

そして、一人でも多くの人に告げ知らせよう

見よ、彼らを!

今まさに、我らの英雄が凱旋したのだ。




2014712日 夏の高校野球滋賀大会開幕試合 
長浜北高ナインは敗れるも、どの高校にも負けない礼節と健闘を見せてくれた。
彼らを讃え、ここに一篇の散文を捧ぐ  



2014年7月13日日曜日

2014夏の高校野球滋賀大会

7月12日、県立彦根球場で開会式にひき続き行われた開幕戦は、我らが母校長浜北高と八日市高校の一戦。
北高野球部は八日市に敗れるも、どこにも負けない健闘を見せてくれました!
北高ナインの必死さに加え、応援席の熱い声援にも心うたれました。
残念ながら一敗地にまみれた母校。
しかし、野球部のみんなの奮闘ぶりに大切な何かを教えられました。
昨日の試合は、選手をはじめ部員全員にとって貴重な財産になったことと思います。
そして、応援に駆け付けた私たちにとっても、大切な宝物になりました!
ありがとう!
本当にありがとう!









2014年7月9日水曜日

ガンバレ!北高野球部!!

われらが長浜北高野球部の寺村キャプテン

96回夏の高校野球滋賀大会、先週の抽選会で見事、開幕戦を引き当てました!

対戦相手は宿敵八日市高校。

去年の秋には、1点差で敗れています。

そして、奇しくもまた、今年の夏の大会で対戦することになりました。

今度は、北高が勝ってほしい!

勝ち負けにこだわることは無論大切ですが、それと同じく全力投球・全員野球で悔いのない力闘を!

ガンバレ!北高野球部!!

2014年夏の高校野球滋賀大会

開幕は712日(土)1000

会場は、県立彦根球場です。






2014年6月18日水曜日

長浜北高は、湖北最強のパワーラインの上に位置している!






太古から受け継がれてきた土地や地理に関する知識に風水(ふうすい)があります。東アジアでは、古来、風水に基づく街づくりがなされてきました。その代表が794年に建設された平安京、即ち京都です。京都は幾多の戦乱や災害に見舞われたにも関わらず、実に1000年以上もの間、わが国の首都の地位を保ちました。これは、京都の地形がまれに見る風水の好立地である上に、様々な風水上の仕掛けが要所になされているからだという説があります。

風水で特に重要なのが『竜脈』(りゅうみゃく)です。竜脈というのは、良い『気』の流れ道のことです。


さて、上の図を見てください。ポイント1は、わが国有数の霊峰である伊吹山です。日本神話最大の英雄ヤマトタケルのミコトは、東海~関東の諸国を征服してヤマトに帰る道中、伊吹山の神様と争った末に命を落としました。伊吹山の神様がいかに強大なパワーの持ち主であらせられるかが分かります。

その伊吹山のパワーを誘導しているかに見えるのがポイント2の息長陵(おきながりょう)です。息長陵というのは、古代に湖北を中心に大きな勢力を築いた名族息長(おきなが)氏の古墳です。息長氏はヤマト王権の中枢部と何代にもわたる姻戚関係にあり、朝鮮半島を征服したと伝えられる神功皇后と現在の天皇家の直系の始祖とされる継体天皇を輩出しています。
古墳や由緒ある神社というのは、意味もなくその場所にあるのではありません。息長陵の立地は、伊吹山の絶大な『気』のパワーの流れの上に造営されたのではないでしょうか?


さらに、この息長陵を中点に伊吹山から一直線に引いたラインの上にあるのが、ポイント3の伊吹神社です。古代の人々が伊吹山を崇拝する聖地だったと思われる伊吹神社、私たちの母校北高の西隣の神社であることは言うまでもありません。

これは私の推測ですが、春分か夏至の払暁(明け方)、伊吹神社からは、伊吹山の山頂から登る太陽を見ることができたのでないでしょうか?そして、伊吹山の山頂から息長陵を経て、伊吹神社に至る光の直線(レイライン)が結ばれるわけです。『光』の流れであるレイラインと『気』の流れる竜脈が一致している可能性もあります。伊吹山から息長陵、そして伊吹神社をつなぐ直線というのはとてつもなく強力なパワーラインかも知れません。

まだ続きます。伊吹神社から西に直線を延ばした地点が、ポイント4の勢上稲荷神社です。「勢い」の「上」と言う神社の名前、なにやらいわくありげです。
神社の名前というのも考えも無く付けられているものではないと思っています。やはり、昔の人々は、伊吹山からのレイラインと竜脈が、まっすぐここまで通じていることを知っていたのではないでしょうか?なお、母校北高は現在の場所に移る前、この勢上稲荷神社の南に接する地点にありました。

さて、ポイント4からポイント5の大通寺を経て緩やかな曲線を描くとポイント6の長浜城址、さらにはびわ湖に至ります。純粋に軍事的な拠点というよりは領地を治めるための城であった長浜城、その立地は、やはり風水の観点から選ばれたのかもしれません。即ち、伊吹山からびわ湖へと流れる竜脈の上に長浜城は築城された。伊吹山から流れる強力なパワーの終点にある長浜城。実は伊吹山からびわ湖に向けて竜脈の上を流れる『気』のパワーこそが、豊臣秀吉公の驚くべき出世の秘密だった!そこまで言うのは言いすぎでしょうか?



…とまあ、珍説を開陳しましたが、もっと詳しく調べると、何かおもしろい発見があるかもしれません。
それにしてもです。
 私たちの北高は、伊吹山から通じるレイラインと竜脈のダブルパワーライン上にある!

う~ん、100年以上も続く学校と言うのはやっぱり何かあるとおもっていましたが…
正門脇のポプラ並木が、あたかも燃え立つ焔のごとくに空に向かって伸びていますが、あれは、勢いさかんな伊吹山の『気』が、一部あふれだしている姿かも。


そして、母校北高の言い尽くせぬ魅力、暖かな雰囲気、大らかな気風、明るく礼儀正しく爽やかにすくすくと育つ生徒たち。そうしたものは伊吹山の最良の『気』を受けているからかもしれない…
だから、私は、どうしても北高に引きつけられるのかもなぁ…

ところで、最初の方で、伊吹山から息長陵を経て、長浜市内に至る伸びるレイライン(光の道)について書きましたが、もともと、レイラインというのはヨーロッパで遺跡や寺院などが一直線に並んでいることに気付いた人が言い出したことですが、日本にも複数のレイラインがあると考えられています。

その代表が、富士山~伊吹山~竹生島~出雲大社を一直線にむすぶ線です。春分または秋分の朝、太陽がこのレイライン上から昇るそうで、古くからこの直線は「ご来光の道」と呼ばれていました。


「ご来光の道」こと富士山と出雲大社を結ぶレイラインは長浜市内では虎姫駅の少し南を通っています。ざっと見た感じですが、虎姫高校はその上に位置しているかもしれません。

このレイラインは、竹生島を経由してびわ湖の対岸、高島市に抜けてゆきますが、そのあたりの話を高島市のサイトが取り上げていました。こちらです → http://www.biwako-genryu.com/spot/post-13.html

高島を横切るレイライン上には、王塚古墳という古代王族の墓があります。ちなみ
に、高島にも昨日ご紹介した古代の有力豪族である息長(おきなが)氏の勢力が及んでいました。高島にはまた、息長氏出身のオオド王すなわち継体天皇についての伝承が残っています。

ところで、高島市内を通るレイラインの上には「日置」という所があり、そこからは伊吹山が竹生島と重なって見えるとのこと。春分/秋分の日の朝には、伊吹山から太陽が昇るのが見られるそうです。日置は古代の人々が伊吹山と太陽を礼拝した場所であったかも知れません。


 北高が位置するレイラインは、上で紹介したレイラインのやや南に位置します。
そして、現在は北陸縦断道路の影にかくれて見えない息長陵が、北高すなわち伊吹神社と伊吹山を一直線に結ぶラインの途中にあります。

 一年の内のある日、伊吹神社の東側つまりは北高の敷地から、息長陵と重なった伊吹山の山頂に陽が昇るのを見ることができる。
その特別な日の出を、古代の人々は畏怖と感動の思いを抱きつつ、息を殺して見つめたに違いありません。

昔人(いにしえびと)にとって、四季のめぐりと天体(とくに太陽)の運行は、食糧生産に直接関わる問題であり、人々の生存、ひいては国家の存亡にかかわる極めて重要な問題でした。
だからこそ、人々は、太陽の動きや自然の有り様に強い関心を持ち、熱心に観察したことでしょう。そうした何世代もの観察と経験の積み重ねの上に形成された古代からの叡智があったと思います。竜脈やレイラインといったものは、そのほんの一部にしか過ぎません。しかし、長い歳月の内に、古代から受け継がれてきた知識の多くは忘れ去られてしまっている。
現代の私たちが、あえて、そうした太古からの忘れられた知識を求めることで、きっと得られる何かがある...そう思うのです。

 
長浜北高校(北からの遠景)
右手の森が伊吹神社
 
 
 

勢上稲荷神社
 
※北高OGの方によると...その方のお父さんから「現在の三菱樹脂長浜工場のあたり(その一角に勢上稲荷神社があり、1924年12月~1964年3月まで北高の敷地だった場所)は竹生島から大きなヘビが渡る場所と言われており、子供の頃は怖い場所として恐れていた」という話を聴いたそうです。
 

湖北最大の霊峰伊吹山
長浜北高校グラウンドから真東に臨む
 
 
 
 
私たちの母校、滋賀県立長浜北高等学校は、明治44年の創立以来、100年を超える校史を擁します。この学校は、終戦後の県立高校の大淘汰の時代をはじめ、幾たびかあった廃校の危機を乗り越えてきました。この学校が竜脈とレイラインの上にあり、いにしえ人の知っていた大地と自然が持つ神秘のパワーを得てきたこともその一因かも知れません???
 

2014年6月7日土曜日

10年で町が消えた?!  人口減少の湖北/発展する長浜市街地

県立高校の統合問題は少子化の結果です。
よって、この問題を考える際には、域内人口の推移と現状を踏まえることが必要でしょう。
そこで、滋賀県の人口統計の10年分をグラフにしてみました。
図表1、本県の人口は上昇基調で推移しています。しかし、図表2の通り、かなりの地域差があることが分かります。図表3、湖北(長浜市と米原市)に限って言えば、この10年で5,082人の人口減です。
参考までに合併前の2005年における虎姫町の人口が5,582人でした。私たちの湖北では10年でひとつの町が消えてしまったと言ったら大げさでしょうか?

図表4は、湖北における人口の増減を原因別に示したものです。赤線が出生と死亡の差異である自然増減、緑色が転入出の差異である社会増減の推移です。2005年までは転入の方が多く人口も増加していました。ところが、2008年に湖北の人口ははっきりと減少に転じ、2009年以降は毎年1,000人前後の人口が減少しています。毎年200~400人近い数の自然減に加え、700~1000人規模の転出が連続しており、高齢化と産業の空洞化が同時進行している可能性があります。

図表5は、湖北の生産年齢人口(15歳~64歳人口)の推移です。この10年で湖北の生産年齢人口は湖北の人口全体よりも大きく減少しています。10年間で湖北の人口が5,082人の減少、マイナス3.1%だったのに対して、生産年齢人口の落ち込みは9,060人、マイナス8.7%となっています。出生率が伸び悩む中、全体の人口の減少幅よりも生産年齢人口の減少幅が大きいという事は、65歳以上の層に人口が移動していることを意味します。

図表6と図表7は長浜市の人口の推移です。長浜市は2006年と2010年に周辺自治体と合併しているため、段差のあるグラフになりました。図表7は、今の規模になった長浜市の人口の推移です。2011年から2013年にかけてグラフは下降線を示しました。

ところが、同じ湖北、さらには長浜市の中でも二極化が生じているようです。図表8は長浜市の統計資料で長浜市内の人口集中地区の推移を表しています。1985年以降、長浜市の人口集中地区(人口の高密度地区)は拡大の一途を辿っています。図表9で長浜の人口集中地区が長浜市の中心市街地に相当することがわかります。図表10は、図表8の表をグラフ化したものです。長浜市の人口集中地区の人口と面積が徐々に拡大していることが良くわかりますね。長浜市の中心市街地が周辺人口を吸収しながら拡大しつつある姿が浮かび上がってきます。

長浜市の人口集中地区についてのデータは5年に一度の国勢調査の結果を基にしているので、直近の状況が分からずもどかしいところです。現在もなお、長浜市の人口高密度地区が拡大しているのか、つまり長浜市街地における人口が依然として増加基調であるのか興味は尽きません。

以上、県の統計等を用いて、10年間の湖北及び長浜の人口の推移を見てきました。
雑な分析ですが次のように言えるかも知れません。即ち、湖北からは人口が流出しつつある一方、長浜市の中心市街地は周辺人口を吸収しながら発展成長している。長浜市は、市中心部に人口と資本とを集中させたスマート・コンパクトシティへと変貌しつつある。そう述べて、本考察の結論としたいと思います。

資料12~14は、ここまでご説明した図表の元になったデータです。エクセルデータ並びにパワーポイントデータそのものをご利用になりたい方は、本ブログの管理人またはフェイスブック『滋賀県立長浜北高等学校』 https://www.facebook.com/kitakou1 の管理人まで連絡ください。ここに挙げたすべての情報を開示提供いたします。

最後に、最新のデータを確認しておきましょう(資料A~D)。
情報源としたのは、2014年6月2日発表の滋賀県の人口についての県の調査です。
http://www.pref.shiga.lg.jp/c/toukei/jinkou/20140602.html

長浜に関係したデータを取り出してグラフにしてみました。
月次のデータですが、人が動く4月のデータなので全体の傾向が現れていると思います。
長浜市は県内第3位の人口ですが、前月に比べて134名のマイナスと県下自治体で最も減少幅が大きくなっているのが気がかりです。...
この他、彦根市と米原市でも人口は若干ながら減少となりました(米原が10名減少、彦根が4名減少)。

滋賀県南部で人口が増加傾向にある一方、彦根以北の人口減少が目立ちます。
長浜市の中心市街地では人口が増加しているとしても、湖北全体でみると、人口減少とりわけ15歳~64歳の生産年齢人口の減少は長期にわたって続いており、憂慮すべき事態であると言わざるを得ません。
長浜北高校と長浜高校との統合は、湖北における人口減少の結果生じた課題ですが、今後さらに域内人口が減少してゆくと、湖北の他の県立高校の統廃合の動きも生じるかもしれません。

しかしながら、学校やその同窓会といった存在は、世代を超えて卒業生を結びつけるものです。その廃絶は、地域社会にとっての損失だと思います。
長浜北高校と長浜高校の同窓会が融合して、両校の同窓会が存続することを望みます。
そして、私たちの母校長浜北高校が受け継いできた1世紀を超す校史が統合新校と統合同窓会に継承され、未来に続いてゆくことを切に願ってやみません。

June 6, 2014  written by ■


P.S. 北高時代から凝り性なので、一度やりだすとやりきってしまうまで収まりがつきません。因果な性分です。統計で遊ぶのはこれくらいにしたいと思います(笑。
とはいえ、なかなか奥が深く、さらに細かいデータを取り、リサーチを蓄積していけば、おもしろいものが出来上がるような気がします。
北高の新聞部あたりが引き継いでやってくれたら、うれしいんですけどね…^^

June 6, 2014  written by ■





















2014年5月16日金曜日

2016年、北高と長高の統合を歓迎します!


北高と長校が統合して発足する長浜統合新校の名称について『長浜北』の校名を選択された滋賀県教育委員会の英断を讃えるとともに、2016年に予定される新校の誕生を歓迎します!

明治以来の母校の歴史は、新校としての長浜北高に受け継がれ、母校はさらに発展してゆくことでしょう。

  滋賀県立長浜北高等学校の不朽の名声と不滅の校史、それを築き上げてこられた先生方と先輩たちを讃えて!


2014年5月9日金曜日

湖北のイートン

驚きました!
何にって?
北高生にです。
5〜6人の北高生とすれ違ったのですが、全員が向こうから挨拶してくる。

「こんにちは」としっかり言う。
声が届かない距離の生徒も、目が合うと向こうから先に会釈。
グラウンドでは野球部の諸君が練習試合を始めるところでしたが、私の姿を認めると、帽子をとって挨拶。
見ず知らずのラフな格好の私にです。

つくづく感心しました。
北高生だった頃の自分は、こんなにちゃんと自分から挨拶できたかなぁ⁇
塵ひとつ落ちてない校庭といい、北高の先生方は、実に立派な教育をされておられる。
私たちは、こんな立派な学校の卒業生なのだ!そして、私たちには、礼儀礼節をしっかりわきまえたたくさんの後輩達がいるのだ!
そう思って、とてもうれしく、また誇らしく感じました。


それで、連想したのが、イギリスのパブリックスクール。
パブリックスクールというのは、イギリスにおける中高一貫の学校です。
イートン校やハロー校など、オックスブリッジを経て英国政財界に多数の人材を輩出しています。寄宿舎を併設しているところも多く、全人格的教育を通じて、ジェントルマンが育成されています。

オックスフォードもケインブリッジも世界的な名声の大学ですが、両大学を出たOBでも、むしろその前に過ごしたパブリックスクール時代の方に思い入れが強い人が多いようです。
18歳前の情操豊かな時期に過ごした学校の想い出と言うのは心に深く刻まれるからかも知れません。

また、ほとんどのパブリックスクールが文武両道をモットーにしています。ラグビー発祥の地であるラグビー校はその典型ですが、いずれもスポーツが盛ん。ナポレオンを打ち破ったワーテルローの戦いを振り返って、英軍指揮官のウェリントン将軍が「ワーテルローの戦いは、イートンの運動場で勝ち取った」と言ったのは有名。まさに、「健全な知性は健全な肉体に宿る」を実践しているわけです。

勉強だけではなくスポーツにも力を入れる文武両道という点、長浜北高の精神はパブリックスクールの精神に通じるものがある。
さらに、北高生徒は、その礼儀礼節と言う点において、世界的な名門校であるイギリスのパブリックスクールの生徒にも引けをとらない!

パブリックスクールはパブリックといっても私立の男子校(一部共学もあり)ですし、イギリスと言う国柄数百年の伝統を有しているので、我等が北高と比べるのは全く適当ではないことは重々承知しています。にもかかわらず、あえて言いたい!

「長浜の学習院たる長浜北高は、湖北のイートン校である!」

本気でそう思っております。  by ■
 
 
 
 
 

2014年4月13日日曜日

『 長浜北高等学校 』という名前の大きさ


校名についての滋賀県教育委員会のリリースを読み返し、つくづく感じたことがあります。それは、私たちの母校の名前、『長浜北』という校名の大きさです。

http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/files/140324koumei.pdf
...
県教育委員会のリリースには次の文言があります。
「統合する両校(北高と長高)は、これまで学習と部活動の両立を大切にし主体的に取り組む中で、確かな学力や健全な身体や豊かな心を培うなど、文武両道を重視した教育活動を行い成果を上げてきています。」

このように高い評価は、百年を超える歴史の中で母校が社会に送り出してきた先輩方のおかげであることは言うまでもありません。

さらに、県教育委員会のリリースは、長浜北という校名について「応募数も相当数あり、地域の期待を担い、地域全体から広く支持されている校名でもあり、最もふさわしい」と締めくくられます。

 母校の名前『長浜北』は、「地域の期待を担い、地域全体から広く支持されている」!

 私たち北高卒業生・在校生は、この期待にこたえねばならない。
熱くこみ上げてくるものを噛み締めつつ、改めて、そう思いました。
 
 
 

2014年4月1日火曜日

統合新校


私たちは、長浜北高と長浜高校の統合を歓迎します!

また、統合新校の校名として長浜北を選んだ滋賀県教育委員会に敬意を表します!

1911年に始まる母校100年の歴史と伝統は、統合新校として歩み始める長浜北高が継承し、未来へつなげる。

永遠なる我等が母校!

統合新校たる母校、滋賀県立長浜北高等学校に栄光あれ!

 

2014年3月25日火曜日

新校の校名、「長浜北」に!!!





速報です!

長浜統合新校の名称について、滋賀県教育委員会は、『長浜北』を案とすることで決定しました!

正式な校名の決定は、県議会の議決によりますが、県教育委員会としては、『長浜北』を推すことにしたとのこと。

以上、教育委員会に電話にて確認済みの情報です。

電話にて、教育委員会の担当の方にも申し上げましたが、ここに改めて滋賀県教育委員会の英断に心から敬意を表します。

今般の決定の背景には、北高OB/OGの皆さんの北高存続の切なる願いがあり、さらに、みんながそれを超えに出したことがあると思います。

北高OB/OGの皆さん、また支援してくださった皆さんに心から感謝を申し上げます!!

















2014年2月2日日曜日

私たちの北高、懐かしい母校! Our old & lovely school !

休日に人気のない北高を訪れ、あちらこちら写真を撮りつつ歩きました。
この変化の激しい時代、スクラップ&ビルドが当たり前の日本で、北高のように何十年たってもほとんど変わらない建物があること自体、驚くべきことですが、ふとタイムスリップしたような錯覚に陥ります。
校舎の角を回ったところで、北高時代の自分に出くわしたらっ!
なんて思ったりして^^
...
もし、今の私が、17歳の自分に出会ったら、どうするだろう?
その後に何があって、何が起こり、自分が選んだ選択肢が、どういう結果をもたらすか知り抜いている自分が、無数の分岐点を通過する前の自分に語りかけることができたら...

たぶん、私は、何も言わずに通り過ぎるな。
当時の自分には、そのときの考えがあり、思いがあった。
随分、肩肘が張って、融通が利かず、思い込みが激しく、浅はかで視野の狭い考え方や行動だったと思うけど、やっぱり、それは、その時の自分が選び取った生き方なんだから。

さて、皆さん、もし今、北高時代の自分に会ったとしたら、あなたは、どうします?

Our old & lovely school
 
 

2014年1月25日土曜日

どうなる?? 母校の校名?!

北高OB/OGの皆さん!

 新校の校名ですが、昨日の懇話会では結論に至らず、継続審議となった模様です。

「長浜」「長浜北」「長浜開知」に加えて
「長浜桐豊」「長浜ブライトン」も候補に上がったが、結論に至らず。

「今年度中には決める」とのことであります (中日新聞より)。

 情報提供いただいた校友さんに感謝申し上げます。