2014年6月18日水曜日

長浜北高は、湖北最強のパワーラインの上に位置している!






太古から受け継がれてきた土地や地理に関する知識に風水(ふうすい)があります。東アジアでは、古来、風水に基づく街づくりがなされてきました。その代表が794年に建設された平安京、即ち京都です。京都は幾多の戦乱や災害に見舞われたにも関わらず、実に1000年以上もの間、わが国の首都の地位を保ちました。これは、京都の地形がまれに見る風水の好立地である上に、様々な風水上の仕掛けが要所になされているからだという説があります。

風水で特に重要なのが『竜脈』(りゅうみゃく)です。竜脈というのは、良い『気』の流れ道のことです。


さて、上の図を見てください。ポイント1は、わが国有数の霊峰である伊吹山です。日本神話最大の英雄ヤマトタケルのミコトは、東海~関東の諸国を征服してヤマトに帰る道中、伊吹山の神様と争った末に命を落としました。伊吹山の神様がいかに強大なパワーの持ち主であらせられるかが分かります。

その伊吹山のパワーを誘導しているかに見えるのがポイント2の息長陵(おきながりょう)です。息長陵というのは、古代に湖北を中心に大きな勢力を築いた名族息長(おきなが)氏の古墳です。息長氏はヤマト王権の中枢部と何代にもわたる姻戚関係にあり、朝鮮半島を征服したと伝えられる神功皇后と現在の天皇家の直系の始祖とされる継体天皇を輩出しています。
古墳や由緒ある神社というのは、意味もなくその場所にあるのではありません。息長陵の立地は、伊吹山の絶大な『気』のパワーの流れの上に造営されたのではないでしょうか?


さらに、この息長陵を中点に伊吹山から一直線に引いたラインの上にあるのが、ポイント3の伊吹神社です。古代の人々が伊吹山を崇拝する聖地だったと思われる伊吹神社、私たちの母校北高の西隣の神社であることは言うまでもありません。

これは私の推測ですが、春分か夏至の払暁(明け方)、伊吹神社からは、伊吹山の山頂から登る太陽を見ることができたのでないでしょうか?そして、伊吹山の山頂から息長陵を経て、伊吹神社に至る光の直線(レイライン)が結ばれるわけです。『光』の流れであるレイラインと『気』の流れる竜脈が一致している可能性もあります。伊吹山から息長陵、そして伊吹神社をつなぐ直線というのはとてつもなく強力なパワーラインかも知れません。

まだ続きます。伊吹神社から西に直線を延ばした地点が、ポイント4の勢上稲荷神社です。「勢い」の「上」と言う神社の名前、なにやらいわくありげです。
神社の名前というのも考えも無く付けられているものではないと思っています。やはり、昔の人々は、伊吹山からのレイラインと竜脈が、まっすぐここまで通じていることを知っていたのではないでしょうか?なお、母校北高は現在の場所に移る前、この勢上稲荷神社の南に接する地点にありました。

さて、ポイント4からポイント5の大通寺を経て緩やかな曲線を描くとポイント6の長浜城址、さらにはびわ湖に至ります。純粋に軍事的な拠点というよりは領地を治めるための城であった長浜城、その立地は、やはり風水の観点から選ばれたのかもしれません。即ち、伊吹山からびわ湖へと流れる竜脈の上に長浜城は築城された。伊吹山から流れる強力なパワーの終点にある長浜城。実は伊吹山からびわ湖に向けて竜脈の上を流れる『気』のパワーこそが、豊臣秀吉公の驚くべき出世の秘密だった!そこまで言うのは言いすぎでしょうか?



…とまあ、珍説を開陳しましたが、もっと詳しく調べると、何かおもしろい発見があるかもしれません。
それにしてもです。
 私たちの北高は、伊吹山から通じるレイラインと竜脈のダブルパワーライン上にある!

う~ん、100年以上も続く学校と言うのはやっぱり何かあるとおもっていましたが…
正門脇のポプラ並木が、あたかも燃え立つ焔のごとくに空に向かって伸びていますが、あれは、勢いさかんな伊吹山の『気』が、一部あふれだしている姿かも。


そして、母校北高の言い尽くせぬ魅力、暖かな雰囲気、大らかな気風、明るく礼儀正しく爽やかにすくすくと育つ生徒たち。そうしたものは伊吹山の最良の『気』を受けているからかもしれない…
だから、私は、どうしても北高に引きつけられるのかもなぁ…

ところで、最初の方で、伊吹山から息長陵を経て、長浜市内に至る伸びるレイライン(光の道)について書きましたが、もともと、レイラインというのはヨーロッパで遺跡や寺院などが一直線に並んでいることに気付いた人が言い出したことですが、日本にも複数のレイラインがあると考えられています。

その代表が、富士山~伊吹山~竹生島~出雲大社を一直線にむすぶ線です。春分または秋分の朝、太陽がこのレイライン上から昇るそうで、古くからこの直線は「ご来光の道」と呼ばれていました。


「ご来光の道」こと富士山と出雲大社を結ぶレイラインは長浜市内では虎姫駅の少し南を通っています。ざっと見た感じですが、虎姫高校はその上に位置しているかもしれません。

このレイラインは、竹生島を経由してびわ湖の対岸、高島市に抜けてゆきますが、そのあたりの話を高島市のサイトが取り上げていました。こちらです → http://www.biwako-genryu.com/spot/post-13.html

高島を横切るレイライン上には、王塚古墳という古代王族の墓があります。ちなみ
に、高島にも昨日ご紹介した古代の有力豪族である息長(おきなが)氏の勢力が及んでいました。高島にはまた、息長氏出身のオオド王すなわち継体天皇についての伝承が残っています。

ところで、高島市内を通るレイラインの上には「日置」という所があり、そこからは伊吹山が竹生島と重なって見えるとのこと。春分/秋分の日の朝には、伊吹山から太陽が昇るのが見られるそうです。日置は古代の人々が伊吹山と太陽を礼拝した場所であったかも知れません。


 北高が位置するレイラインは、上で紹介したレイラインのやや南に位置します。
そして、現在は北陸縦断道路の影にかくれて見えない息長陵が、北高すなわち伊吹神社と伊吹山を一直線に結ぶラインの途中にあります。

 一年の内のある日、伊吹神社の東側つまりは北高の敷地から、息長陵と重なった伊吹山の山頂に陽が昇るのを見ることができる。
その特別な日の出を、古代の人々は畏怖と感動の思いを抱きつつ、息を殺して見つめたに違いありません。

昔人(いにしえびと)にとって、四季のめぐりと天体(とくに太陽)の運行は、食糧生産に直接関わる問題であり、人々の生存、ひいては国家の存亡にかかわる極めて重要な問題でした。
だからこそ、人々は、太陽の動きや自然の有り様に強い関心を持ち、熱心に観察したことでしょう。そうした何世代もの観察と経験の積み重ねの上に形成された古代からの叡智があったと思います。竜脈やレイラインといったものは、そのほんの一部にしか過ぎません。しかし、長い歳月の内に、古代から受け継がれてきた知識の多くは忘れ去られてしまっている。
現代の私たちが、あえて、そうした太古からの忘れられた知識を求めることで、きっと得られる何かがある...そう思うのです。

 
長浜北高校(北からの遠景)
右手の森が伊吹神社
 
 
 

勢上稲荷神社
 
※北高OGの方によると...その方のお父さんから「現在の三菱樹脂長浜工場のあたり(その一角に勢上稲荷神社があり、1924年12月~1964年3月まで北高の敷地だった場所)は竹生島から大きなヘビが渡る場所と言われており、子供の頃は怖い場所として恐れていた」という話を聴いたそうです。
 

湖北最大の霊峰伊吹山
長浜北高校グラウンドから真東に臨む
 
 
 
 
私たちの母校、滋賀県立長浜北高等学校は、明治44年の創立以来、100年を超える校史を擁します。この学校は、終戦後の県立高校の大淘汰の時代をはじめ、幾たびかあった廃校の危機を乗り越えてきました。この学校が竜脈とレイラインの上にあり、いにしえ人の知っていた大地と自然が持つ神秘のパワーを得てきたこともその一因かも知れません???
 

2014年6月7日土曜日

10年で町が消えた?!  人口減少の湖北/発展する長浜市街地

県立高校の統合問題は少子化の結果です。
よって、この問題を考える際には、域内人口の推移と現状を踏まえることが必要でしょう。
そこで、滋賀県の人口統計の10年分をグラフにしてみました。
図表1、本県の人口は上昇基調で推移しています。しかし、図表2の通り、かなりの地域差があることが分かります。図表3、湖北(長浜市と米原市)に限って言えば、この10年で5,082人の人口減です。
参考までに合併前の2005年における虎姫町の人口が5,582人でした。私たちの湖北では10年でひとつの町が消えてしまったと言ったら大げさでしょうか?

図表4は、湖北における人口の増減を原因別に示したものです。赤線が出生と死亡の差異である自然増減、緑色が転入出の差異である社会増減の推移です。2005年までは転入の方が多く人口も増加していました。ところが、2008年に湖北の人口ははっきりと減少に転じ、2009年以降は毎年1,000人前後の人口が減少しています。毎年200~400人近い数の自然減に加え、700~1000人規模の転出が連続しており、高齢化と産業の空洞化が同時進行している可能性があります。

図表5は、湖北の生産年齢人口(15歳~64歳人口)の推移です。この10年で湖北の生産年齢人口は湖北の人口全体よりも大きく減少しています。10年間で湖北の人口が5,082人の減少、マイナス3.1%だったのに対して、生産年齢人口の落ち込みは9,060人、マイナス8.7%となっています。出生率が伸び悩む中、全体の人口の減少幅よりも生産年齢人口の減少幅が大きいという事は、65歳以上の層に人口が移動していることを意味します。

図表6と図表7は長浜市の人口の推移です。長浜市は2006年と2010年に周辺自治体と合併しているため、段差のあるグラフになりました。図表7は、今の規模になった長浜市の人口の推移です。2011年から2013年にかけてグラフは下降線を示しました。

ところが、同じ湖北、さらには長浜市の中でも二極化が生じているようです。図表8は長浜市の統計資料で長浜市内の人口集中地区の推移を表しています。1985年以降、長浜市の人口集中地区(人口の高密度地区)は拡大の一途を辿っています。図表9で長浜の人口集中地区が長浜市の中心市街地に相当することがわかります。図表10は、図表8の表をグラフ化したものです。長浜市の人口集中地区の人口と面積が徐々に拡大していることが良くわかりますね。長浜市の中心市街地が周辺人口を吸収しながら拡大しつつある姿が浮かび上がってきます。

長浜市の人口集中地区についてのデータは5年に一度の国勢調査の結果を基にしているので、直近の状況が分からずもどかしいところです。現在もなお、長浜市の人口高密度地区が拡大しているのか、つまり長浜市街地における人口が依然として増加基調であるのか興味は尽きません。

以上、県の統計等を用いて、10年間の湖北及び長浜の人口の推移を見てきました。
雑な分析ですが次のように言えるかも知れません。即ち、湖北からは人口が流出しつつある一方、長浜市の中心市街地は周辺人口を吸収しながら発展成長している。長浜市は、市中心部に人口と資本とを集中させたスマート・コンパクトシティへと変貌しつつある。そう述べて、本考察の結論としたいと思います。

資料12~14は、ここまでご説明した図表の元になったデータです。エクセルデータ並びにパワーポイントデータそのものをご利用になりたい方は、本ブログの管理人またはフェイスブック『滋賀県立長浜北高等学校』 https://www.facebook.com/kitakou1 の管理人まで連絡ください。ここに挙げたすべての情報を開示提供いたします。

最後に、最新のデータを確認しておきましょう(資料A~D)。
情報源としたのは、2014年6月2日発表の滋賀県の人口についての県の調査です。
http://www.pref.shiga.lg.jp/c/toukei/jinkou/20140602.html

長浜に関係したデータを取り出してグラフにしてみました。
月次のデータですが、人が動く4月のデータなので全体の傾向が現れていると思います。
長浜市は県内第3位の人口ですが、前月に比べて134名のマイナスと県下自治体で最も減少幅が大きくなっているのが気がかりです。...
この他、彦根市と米原市でも人口は若干ながら減少となりました(米原が10名減少、彦根が4名減少)。

滋賀県南部で人口が増加傾向にある一方、彦根以北の人口減少が目立ちます。
長浜市の中心市街地では人口が増加しているとしても、湖北全体でみると、人口減少とりわけ15歳~64歳の生産年齢人口の減少は長期にわたって続いており、憂慮すべき事態であると言わざるを得ません。
長浜北高校と長浜高校との統合は、湖北における人口減少の結果生じた課題ですが、今後さらに域内人口が減少してゆくと、湖北の他の県立高校の統廃合の動きも生じるかもしれません。

しかしながら、学校やその同窓会といった存在は、世代を超えて卒業生を結びつけるものです。その廃絶は、地域社会にとっての損失だと思います。
長浜北高校と長浜高校の同窓会が融合して、両校の同窓会が存続することを望みます。
そして、私たちの母校長浜北高校が受け継いできた1世紀を超す校史が統合新校と統合同窓会に継承され、未来に続いてゆくことを切に願ってやみません。

June 6, 2014  written by ■


P.S. 北高時代から凝り性なので、一度やりだすとやりきってしまうまで収まりがつきません。因果な性分です。統計で遊ぶのはこれくらいにしたいと思います(笑。
とはいえ、なかなか奥が深く、さらに細かいデータを取り、リサーチを蓄積していけば、おもしろいものが出来上がるような気がします。
北高の新聞部あたりが引き継いでやってくれたら、うれしいんですけどね…^^

June 6, 2014  written by ■