OB有志のブログです。母校100年の歴史と伝統を未来へ!Unofficial & Brought to you by NNS graduates.
2013年12月15日日曜日
2013年12月1日日曜日
Long lives! Our mother school!
『艦これ』にはじまり、『北これ』...、前置きが長く なりましたが...
結局は、これが言いたい!
あと数年で、私たちの母校は消滅してしまうかもしれない 。
校舎も、校名も、校歌も、校章も、すべてが煙のように消 えてなくなってしまっても、私たちがいる限り、北高は滅 びない!...
我らを育てし母なる母校、今こそ、声高らかに讃(たた) えん!
For her Glory! Our Northern Nagahama High School!
結局は、これが言いたい!
あと数年で、私たちの母校は消滅してしまうかもしれない
校舎も、校名も、校歌も、校章も、すべてが煙のように消
我らを育てし母なる母校、今こそ、声高らかに讃(たた)
For her Glory! Our Northern Nagahama High School!
Long lives!! Our sacred mother school!!!
2013年11月3日日曜日
2013年10月27日日曜日
桐子さん!
戦艦を擬人化したゲーム『艦これ』、『艦むす』があるな ら!
学校を擬人化してもいいやんか?!
というわけで、『北高これくしょん』、『北これ』 でつ^^...
北むす 1番目は、北高桐子(きただか きりこ) さん♪
彼女は、やる気を出すとすごいのですが、深窓育ちのお嬢 様だけあって、なかなか馬力がかかりません。
今朝もゆっくり、優雅なお目覚め。
...マダム、朝食の用意ができましたよ、
ベッドで召し上がりますか、それともテラスになさいます か?
今朝は、マダムの好きなビシソワーズをわざわざフレッシ ュポテトを取り寄せて作りましたよ。さぁさぁ、早く起き て召し上がれ...
って...さすがにおちゃらけが過ぎるかにゃぁ~~
情熱的に崇拝してるんですけどね、マジで。
学校を擬人化してもいいやんか?!
というわけで、『北高これくしょん』、『北これ』 でつ^^...
北むす 1番目は、北高桐子(きただか きりこ) さん♪
彼女は、やる気を出すとすごいのですが、深窓育ちのお嬢
今朝もゆっくり、優雅なお目覚め。
...マダム、朝食の用意ができましたよ、
ベッドで召し上がりますか、それともテラスになさいます
今朝は、マダムの好きなビシソワーズをわざわざフレッシ
って...さすがにおちゃらけが過ぎるかにゃぁ~~
情熱的に崇拝してるんですけどね、マジで。
2013年8月24日土曜日
北高百年史3 町立から県立へ
1911年の母校創立から10年、長浜町立長浜女学校は、長浜町から滋賀県に移管されることになりました。
1922年(大正11年)4月、母校は、滋賀県立長浜高等女学校と校名を改めます。
滋賀県立長浜高等女学校は本科及び補習科を設置、園田愛之助先生が第四代校長に補せられました。
当時を振り返って、園田先生が同窓会誌に書いておられます。
「我が長浜高等女学校は明治44年3月町立として創立されてから10年あまりの星霜を閲(けみ)して、その間著しい進歩の跡を止めて居る。
形式上から云っても初め実科高等女学校として設けられたものが、大正9年には高等女学校となり、次いで本年4月町立から県立へと移管されたものでその規模は甚だしく拡大さるる事となった。
此間4人の学校長と多数の職員を送り迎え、卒業生は巳に460名を出し、現在300余名の在学生を収容して居る次第である」 (園田愛之助先生 「会誌」第7号)
1922年(大正11年)6月1日には、母校の創立十周年の記念式典が開催されました。
式典の模様は、同窓会誌に詳細な記述があります。
「風向晴麗なる琵琶湖畔の長浜の地に呱呱の声を挙げし我校は早や既に九つの春秋も過ぎ、茲に目出度十をの夏を迎へました。
本校開けてより以来、月に日に発達し此に本年6月1日を以って満十周年記念式並に宮先生の傾聴式が、いと厳かに挙行されました。
当日は、梅雨のならいとて雨は朝から霏々として降り、世は湿り勝ちな気分に漲って居りましたが、我等喜びに満てる三百のはらからは意気揚々として式場に参列致しました。
10時校庭に響き渡る鈴の合図に、来賓始め先生方の着席終り、めかしきピアノの音につれて君が代の合唱が始まり、いよいよ式典は開かれました。
校長先生のいと懇なる式辞が終り、続いて来賓方の祝辞と、目録の順を追うてはこれば、今日の佳日を祝す同窓の歌に式は終りを告げました。
尚又ここに強の佳日を卜して宮先生の傾聴式が挙行されました。先生は本校開けてより以来十とせの間誠心を以ってご勤務遊ばし、恰も十年一日の如く学校を思い、又我々のために熱血をしぼってお尽し下さいました。
その御事を深く感謝し、又その御徳をほめたたえ申し上げ、尚先生に幸多かれと祈るうちに、タイムは流れやがて校長先生の閉会の辞に式は終り、生徒一同は楽しく解散致しました。
来賓及び先生方には2階に於いて盃を挙げられ、後三々五々打連れ立ちて解散されました。
棋くして雨そぼふる中にも盛んに、且森厳に、楽しき祝典は終を告げました。」
(杉本悦子先輩 「会誌」第6号)
2013年7月14日日曜日
北高百年史2 同窓会誌の発行
さて、1911年(明治44年)4月に誕生した母校ですが、この頃の授業風景を、同窓会誌に見ることができます。
『裁縫室にて』 真壁升江さん 大正6年(1917年)3月卒
「西の窓より、静かに流れ込む春の日の光に運び居る針がキラリと光る。
縫い物に勢を出せる皆の顔が、ほんのりと赤らんでいる。
と、突然、誰かが、チャリとはさみを机上に取り落とせり。
其の強い音が、じっと静まり居たこの裁縫室に響き渡る。
皆は驚いて一度に頭を下げしが、後下を向いて、クスクスと笑う。
幼稚園の音楽室よりは、ゆかしいオルガンの音に合わせて唱歌が聞こゆ。
"妹と弟とをかわゆがり、毎日遊んで下されし兄上姉様懐かしや"と一層卒業するに真近くなりたるを感ず。
実に心細し。
かく楽しく教へを受けるも、ここ暫しの間なりと思へば、涙も落つるばかりなり。
又、今卒業するのだと思はば、一時に種々知らぬ物、続々出て来り、今さら如何にせんと思ひ沈む折から、けたたましく鐘が鳴り響きたり。」 (「会誌」第2号)
何と格調高い名文でしょう!
漢文調の流々たる文章は、巧みな情景描写と感情表現を織り交ぜつつ、末尾まで一気に読ませる見事なものです。
この文章から、母校がいかに立派な教育を生徒に施していたか、また、生徒の側も実に熱心に学問を吸収して自分のものとしていたかが察せられるというものです。
真壁先輩が寄稿された同窓会誌は、その前年に創刊されています。
『同窓会誌発刊の辞』(大田原邦太郎先生作)がまた、すばらしい。
「わが同窓会の組織成りてより纔(わずか)に2歳、夙(はや)く既に、会誌の発刊を見る。
惟(おも)ふに会員相互の気脈を通じ、情誼(じょうぎ)を温め、意趣を齎(もたら)すものこれを措(お)きて他に求むべきもの莫(な)かるべし。
今や、籍を本会に寄するもの150有余名。而(しか)も各異の境遇は、年所の推移と共に、益々相互の関係を疎隔せしめ、遂には、杳として其消息をだに聴く能(あた)はざるに至らんとす。会誌の起る誠に歇(や)むべからざるものあり。
此誌集むる所無慮数百章、字句或は金玉ならざるも、真情紙面に流露し、謂ゆる「同心之言其臭如蘭」の趣あり。
掬(きく)すべし、欽(きん)すべし、希(ねがわ)くは風晨月夕これを以て会心の好友となさんことを。これを創刊の辞となす。」
これまた、誠に、郁郁青青たる名文であります。
読みながら、思わず背筋がピンと伸びます。
学ぶことに対するひたむきな情熱を持つ生徒たち、精魂を傾けて教え育てようとされる先生方、まさに、理想的な教育環境の下、母校の名声は更に高まってゆくのでした。
『裁縫室にて』 真壁升江さん 大正6年(1917年)3月卒
「西の窓より、静かに流れ込む春の日の光に運び居る針がキラリと光る。
縫い物に勢を出せる皆の顔が、ほんのりと赤らんでいる。
と、突然、誰かが、チャリとはさみを机上に取り落とせり。
其の強い音が、じっと静まり居たこの裁縫室に響き渡る。
皆は驚いて一度に頭を下げしが、後下を向いて、クスクスと笑う。
幼稚園の音楽室よりは、ゆかしいオルガンの音に合わせて唱歌が聞こゆ。
"妹と弟とをかわゆがり、毎日遊んで下されし兄上姉様懐かしや"と一層卒業するに真近くなりたるを感ず。
実に心細し。
かく楽しく教へを受けるも、ここ暫しの間なりと思へば、涙も落つるばかりなり。
又、今卒業するのだと思はば、一時に種々知らぬ物、続々出て来り、今さら如何にせんと思ひ沈む折から、けたたましく鐘が鳴り響きたり。」 (「会誌」第2号)
何と格調高い名文でしょう!
漢文調の流々たる文章は、巧みな情景描写と感情表現を織り交ぜつつ、末尾まで一気に読ませる見事なものです。
この文章から、母校がいかに立派な教育を生徒に施していたか、また、生徒の側も実に熱心に学問を吸収して自分のものとしていたかが察せられるというものです。
真壁先輩が寄稿された同窓会誌は、その前年に創刊されています。
『同窓会誌発刊の辞』(大田原邦太郎先生作)がまた、すばらしい。
「わが同窓会の組織成りてより纔(わずか)に2歳、夙(はや)く既に、会誌の発刊を見る。
惟(おも)ふに会員相互の気脈を通じ、情誼(じょうぎ)を温め、意趣を齎(もたら)すものこれを措(お)きて他に求むべきもの莫(な)かるべし。
今や、籍を本会に寄するもの150有余名。而(しか)も各異の境遇は、年所の推移と共に、益々相互の関係を疎隔せしめ、遂には、杳として其消息をだに聴く能(あた)はざるに至らんとす。会誌の起る誠に歇(や)むべからざるものあり。
此誌集むる所無慮数百章、字句或は金玉ならざるも、真情紙面に流露し、謂ゆる「同心之言其臭如蘭」の趣あり。
掬(きく)すべし、欽(きん)すべし、希(ねがわ)くは風晨月夕これを以て会心の好友となさんことを。これを創刊の辞となす。」
これまた、誠に、郁郁青青たる名文であります。
読みながら、思わず背筋がピンと伸びます。
学ぶことに対するひたむきな情熱を持つ生徒たち、精魂を傾けて教え育てようとされる先生方、まさに、理想的な教育環境の下、母校の名声は更に高まってゆくのでした。
2013年6月8日土曜日
北高百年史1 「1911年 母校の誕生」 The birth of our school in 1911
1911年、この年、わたしたちの母校、長浜北高校の前身、長浜女学校が創立されました。
正式名称は、長浜町立長浜実科高等女学校。1911年(明治44年)3月20日、文部省から設置の認可が下り、同年4月1日に開校。4月17日に授業を始め、6月1日に創立開校式を挙行しています。
時系列で見る限り、てんわわんやの感じがします。女学校を創ってみたら、思いがけない数の生徒が集まり、授業開始が遅れ、開校式も後日、少し落ち着いてからようやく...そんな事情があったのかもしれません(あくまで想像です)。
開校当時の校舎は、旧長浜開知学校の校舎。
この建物は、現在も長浜市内に現存し、1階でバーが営業しています。文明開化の昔をしのばせるクラシカルな建物。なかなか風格があります。3階建ての校舎のてっぺんには、六角形の太鼓楼が載っていました。その形状がインク壷を思わせることから、われらが母校は、「インキ壷女学校」と呼ばれることもあったそうです。
翌、明治45年(1912年)、4月1日、長浜女学校は、正光寺というお寺を仮の寄宿舎に指定しています。長浜市外からも、女学校で学びたいという生徒がたくさん応募してきたのでしょうね。
さらに、7月10日には、生徒の増加に伴い、隣接地の民家を借りて、普通教室及び割烹教室(料理教室:調理実習室)としました。
開校からわずか1年3ヶ月で教室借り増し。この記録からも、想定以上の学生が集まったことが分かります。
明治の昔に、女学校に行くというのは、大変なことだったようです(経済的にも、学歴の点でも)。
そのような時代に、長浜女学校の人気の高さには驚かされます。当時の長浜市とその周辺地域の人々が、子女に高等教育を施すことについて、いかに熱い思いを抱いていたかが分かります。
地域の人々の教育に対する情熱が、私たちの母校、長浜北高校を生んだのです。
同時代の世の中の動きを見ると、明治45年に、明治天皇が崩御されています。
幕末の動乱から維新の断行、日清日露の戦いを通じて、わが国を統治された明治天皇の下、極東の小国であった日本は、列強諸国に比肩しうる強国へと発展します。
日清戦争勝利の賠償金を活用して起こった第一次産業革命は、わが国の繊維工業の躍進をもたらしました。濱ちりめんの生産地、長浜は、国の基幹産業の一大中心地でした。そこからもたらされた富が、長浜市民を豊かにし、その結果として、教室にあふれるほど多数の生徒が長浜女学校に集まったのでしょうね。
(北高百年史 続く)
2013年4月1日月曜日
はじめに
滋賀県立長浜北高等学校は、明治時代から続く高等学校である。
その歴史は古く、1911年4月1日創立の長浜女学校にさかのぼる。
100年を超す校史の中で、町立から県立へ、女学校から共学校へと様々な変遷を遂げて今日に至る。
伝統あるこの学校は、数年後に近隣の高校と統合され、あらたな歩みを始めることになる。
だが、それは、校史の断絶を意味するものではない。
長浜北高の歴史と伝統は決して滅びない。それを受け継ぐ覚悟を持って、後に続く者がいる限り!
その歴史は古く、1911年4月1日創立の長浜女学校にさかのぼる。
100年を超す校史の中で、町立から県立へ、女学校から共学校へと様々な変遷を遂げて今日に至る。
伝統あるこの学校は、数年後に近隣の高校と統合され、あらたな歩みを始めることになる。
だが、それは、校史の断絶を意味するものではない。
長浜北高の歴史と伝統は決して滅びない。それを受け継ぐ覚悟を持って、後に続く者がいる限り!
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