さて、1911年(明治44年)4月に誕生した母校ですが、この頃の授業風景を、同窓会誌に見ることができます。
『裁縫室にて』 真壁升江さん 大正6年(1917年)3月卒
「西の窓より、静かに流れ込む春の日の光に運び居る針がキラリと光る。
縫い物に勢を出せる皆の顔が、ほんのりと赤らんでいる。
と、突然、誰かが、チャリとはさみを机上に取り落とせり。
其の強い音が、じっと静まり居たこの裁縫室に響き渡る。
皆は驚いて一度に頭を下げしが、後下を向いて、クスクスと笑う。
幼稚園の音楽室よりは、ゆかしいオルガンの音に合わせて唱歌が聞こゆ。
"妹と弟とをかわゆがり、毎日遊んで下されし兄上姉様懐かしや"と一層卒業するに真近くなりたるを感ず。
実に心細し。
かく楽しく教へを受けるも、ここ暫しの間なりと思へば、涙も落つるばかりなり。
又、今卒業するのだと思はば、一時に種々知らぬ物、続々出て来り、今さら如何にせんと思ひ沈む折から、けたたましく鐘が鳴り響きたり。」 (「会誌」第2号)
何と格調高い名文でしょう!
漢文調の流々たる文章は、巧みな情景描写と感情表現を織り交ぜつつ、末尾まで一気に読ませる見事なものです。
この文章から、母校がいかに立派な教育を生徒に施していたか、また、生徒の側も実に熱心に学問を吸収して自分のものとしていたかが察せられるというものです。
真壁先輩が寄稿された同窓会誌は、その前年に創刊されています。
『同窓会誌発刊の辞』(大田原邦太郎先生作)がまた、すばらしい。
「わが同窓会の組織成りてより纔(わずか)に2歳、夙(はや)く既に、会誌の発刊を見る。
惟(おも)ふに会員相互の気脈を通じ、情誼(じょうぎ)を温め、意趣を齎(もたら)すものこれを措(お)きて他に求むべきもの莫(な)かるべし。
今や、籍を本会に寄するもの150有余名。而(しか)も各異の境遇は、年所の推移と共に、益々相互の関係を疎隔せしめ、遂には、杳として其消息をだに聴く能(あた)はざるに至らんとす。会誌の起る誠に歇(や)むべからざるものあり。
此誌集むる所無慮数百章、字句或は金玉ならざるも、真情紙面に流露し、謂ゆる「同心之言其臭如蘭」の趣あり。
掬(きく)すべし、欽(きん)すべし、希(ねがわ)くは風晨月夕これを以て会心の好友となさんことを。これを創刊の辞となす。」
これまた、誠に、郁郁青青たる名文であります。
読みながら、思わず背筋がピンと伸びます。
学ぶことに対するひたむきな情熱を持つ生徒たち、精魂を傾けて教え育てようとされる先生方、まさに、理想的な教育環境の下、母校の名声は更に高まってゆくのでした。